永遠のテーマ『空海と楊貴妃のタイムトラベル』につなげる千年の絆

今まで、中国の劇団による楊貴妃を題材とした公演が多く行われてきたが、千年の絆劇団は空海と楊貴妃のタイムトラベルを初舞台として挑戦します。
この劇の舞台芸術総監督である長江洋子は、もともと中国出身だった。三十年前、日本にやってきた彼女には、楊貴妃の悲残なロマンチック愛情物語と遣唐使を創作、公演したいという長年の望みがあった。
 音楽、舞踏、美術など、様々な芸術が一体となった伝統的なオペラの創作や公演は容易ではない。またこの『楊貴妃』を日本で上演することは、多くの苦労をともなうものだと知り。
「楊貴妃と玄宗皇帝の愛情物語は、世界でもよく知られています」と言う長江洋子氏は、『楊貴妃』創作のために、人材を集め、計画を立て始めた。
長江洋子の努力によって、オペラ『空海と楊貴妃のタイムトラベル』には、千年の絆劇団が集結した。
彼らと俳優たちの努力により、オペラ『空海と楊貴妃のタイムトラベル』が完成した。
長江洋子は、「『楊貴妃』の日本公演は、中日双方の努力の結果であり、細部にわたって、中日間の交流と協力を具体的に現している」と、感慨深く語る。
今回のオペラ『空海と楊貴妃のタイムトラベル』は、今まで公演されてきた『楊貴妃』のストーリーと異なり、楊貴妃が日本にたどり着いたという話と、何人の遣唐使を登場させた。
唐の時代、遣唐使として中国に渡った日本(倭国)の天才僧侶空海。
日本に仏教をもたらした飛鳥時代の聖徳太子(574~622)に始まり、平安時代に、空海、最澄の二人によってブッダの仏教が継承されました。
弘法大師空海は、人間は誰もが平等であるという空海の教えに基づき、高野山には特別な空間を作り、それから 空海は詩人の白楽天とともに皇帝玄宗の妃であり絶世の美女の楊貴妃が深く関わっていたことを知って、同じく入唐(にっとう)した倭人、阿倍仲麻呂や「詩仙」と呼ばれた詩人、李白を巻き込んで、楊貴妃の死の真相と空海の目の前で起きる事件の真相が明らかに時代を越えて語り継がれてゆくに違いありません。
阿倍仲麻呂といえば第9 次遣唐使に随行する留学生として、717年に唐に渡り、唐の学校で学び、難関試験に合格した後で玄宗皇帝に仕え、同じ年に入国した留学生には、吉備真備(きびのまきび)や僧侶の玄昉(げんぼう)もいました。
李白や王維など名だたる詩人と親交があり、晁衡(ちょうこう)という中国名で知られた仲麻呂は、733年、16年ぶりに第10次遣唐使船が到着し、同期生の吉備真備や玄昉が帰国することになっても、唐に残留する道を選びました。
唐でのさらなる出世を目指すため、と言われていますが、楊貴妃の魅力のとりこになってしまったことも、十分あり得るかもしれません。
彼はその後も文官として順調に出世し、玄宗皇帝の高官となっていきました。
752年、第12次遣唐使船が唐に到着、遣唐副使の吉備真備は、久々に懐かしい友人と再会した56歳の仲麻呂が、帰国を決意したというのもうなづけます。
彼も在唐35年になっており、十分出世も果たしました。
玄宗皇帝に帰国を願い出て許された仲麻呂は、遣唐大使藤原清河(きよかわ)の乗る第1船で帰国することになりました。
彼の若として有名な「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」は、753年、帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説だそうです。
遣唐使は遭難のリスクを回避するため、大使と副使は別の船になり、吉備真備は第2船、もう一人の副使である大伴古麻呂(おおとものこまろ)は、第2船に乗りました。
この大伴古麻呂は、唐が出国を禁じたため藤原清河に乗船を拒否された鑑真大和上ら一行を、内密に自分の第2船に乗せました。
鑑真大和上688~763年 唐の揚州に生まれ、江南第一の大師と称されました。
天宝元年(742)、唐を訪れていた留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごされ、天皇を始めとする多くの人々に授戒をされました。
その渡航の様子は、「東征伝絵巻」(重文)に描かれています。
唐を出発した遣唐使船は、第2・第3船が無事に琉球に到着、日本に帰国することができたげと、仲麻呂や清河の乗る第1船は琉球出発後座礁、その後暴風雨で安南(ヴェトナム中部)に漂着、ここで彼らは原住民に襲撃され、多くの乗員が命を落としたといいます。
このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んでいます。
しかし仲麻呂や清河は無事に逃げ延び、755年に長安に帰着できて、唐の玄宗皇帝より,百花亭で酒宴を開くことを命ぜられた楊貴妃は,用意万端ととのえて待っていたが,皇帝は急に梅妃のいる西宮に行く先を変えられたと知らせが入る。心の懊悩もだしがたく,側に仕える高力士と裴(はい)力士を相手に酒を飲み,飲むほどに酔うほどに胸の愁いは深まるばかり、覚えず大酔。それから寂しの時間を過ごすため、唐の玄宗が創作したの霓裳羽衣曲に応じて、虹のように美しい裳と羽衣はごろも、天人や仙女などの着る衣、夢の中で見た天上の月宮殿での天人の舞楽にならって、霓裳羽衣舞を編集したと伝えられる。
唐代の絶世の美女と称され楊貴妃は反乱を起こした一因と見なされ、寵愛を受けた皇帝・玄宗から泣く泣く死を命じられて首をくくったとされる。記事は、中国や日本の民間には「賜死させられたのは楊貴妃ではなく、身代わりの宮女であり、楊貴妃本人は遣唐使の護送により日本へと逃げ延びていった」という説が存在すると、それにしてもなぜ、楊貴妃は仙人の世界にいたのでしょうか。楊貴妃は、女道士として「太真」であり、能で「太真殿」が楊貴妃の宮として示されたことの背景でもあり、優美さ、品の良さ、寂しさ、静けさといった情感をたたえた謡、舞が、この曲の焦点である楊貴妃と玄宗の深い愛と絆、そして別離の哀惜の心情を、くっきりと描き出していきます。曲の背景を知ることで、その味わいは、より深まることでしょう。
この年安禄山が反乱を起こし、仲麻呂も玄宗皇帝や楊貴妃らとともに、長安を脱出したものと思われます。
遣唐使、吉備真備が日本に連れ帰ったとされる九尾の狐(玉藻前)こと絶世の美女は、楊貴妃(玉環)のことで間違いないですか?
吉備真備が玄宗から命を受け、密かに連れ出したのだとすれば、夢物語をでっちあげて後から探しに来させるのにも合点がいきます。
楊貴妃は玄宗皇帝の寵妃。国を動かす力を持つ美女です。
内乱がおさまった後、玄宗が夢に処刑したはずの楊貴妃が出て来て日本にいると告げたと、
側近に日本まで探しに行かせたが、見つからず中国へ帰っていきました。
日本各地に存在する楊貴妃の伝説もしかり、日本と中国はやはり地理的にも歴史的にも切れない縁でつながっていることを感じさせる。まさに、中国語で言うところの「一衣帯水」なのである。
日本に残る楊貴妃伝説
日本の山口県長門市油谷には、こんな伝説が言い伝えられている。
中国唐の天宝15年(756年)のある日、一艘の大きな船が油谷の唐渡口に流れ着いた。船には絶世の美女が乗っていたが、長い間の航海でとても憔悴していた。
お付きの者は言った。「この方は唐の皇帝玄宗の寵妃、楊玉環です。安禄山の反乱により唐軍は大敗を喫し、馬嵬坡に至った時、士気が衰えていた将兵たちは、楊貴妃と宰相の楊国忠の処刑を強く要求されて、楊貴妃をこよなく愛していた玄宗皇帝は、彼女を処刑にすることに耐えられず、危機一髪の所で、腹心の家来に楊貴妃を助けさせ、そして船に乗せ、ここまで逃げてきたのです。
長恨歌には、乱が鎮まった後、皇帝は深い悲しみのうちに、道士(方士)に楊貴妃の魂魄の行方を探させたと書かれ、そこから能の物語につながっていきます。
長恨歌【ちょうごんか】
中国,唐の詩人白居易の七言詩。120句からなる古調子で,玄宗皇帝と楊貴妃の情事をロマンティックな手法でつづった叙事詩であるが,作者の空想は死後の世界にも及び,構想は壮大。元以後戯曲の題材となり,白仁甫の《梧桐雨》,屠隆の《彩毫記》が生まれた。日本では《源氏物語》などに影響。
現に、阿部仲麻呂は乱が起こるずっと以前に日本へ船で帰国しようとしているのですが、遭難し、亡くなったと思われていたそうですが、結局は唐に引き返しており。その数カ月後に乱が起こったため、乱が起こった当時、その場にいた可能性があり。記録にも名が残されているそうです。
吉備由利は吉備真備の娘とする説と妹とする説があり、どちらともいえません。
由利は764年に正五位上、767年に正四位上、768年に従三位となり、774年に亡くなった。称徳天皇に信頼されていたとはいえ、尚蔵という最高位の女官にまでなった女性ですから、
また、楊貴妃が日本へ亡命した地点が山口県油谷町(現在の長門市)とされていること、その後も玄宗と連絡は取りあっていたものの、ついに帰国は叶わず、日本でその一生を終えたことなどが伝説となっていることを伝えた。
そして、楊貴妃の文化的な「功績」として、その美しさが後世の文人たちによる文学作品上の素晴らしい描写を引き出したこと、音楽や詩歌の才に秀でており多くの佳作を残したこと等々。
千年の絆 愛と感謝の光あふれる 
永遠のテーマ 健康と美で 生まれ変わ