京都国際書画展・「凌寒探幽」禅・茶、古寺の至宝巡り

令和七年、歳在乙巳、睦月初春,會于京都,為観展事也。群賢畢至、名士咸集,大作林立、其況盛也。此地有京陵古寺、比叡高野、御所王気,唐風洋溢、金閣名塔、映照千年…、庭園茶屋探幽、王朝旧蹟盤恒、遊目騁懐、快然自足,不知老之将至矣

廣島国際書芸交流会一行19人、京都市美術館(通称京セラ美術館)で日本南風水墨画会主催、廣島国際書芸交流会など共催の「2025京都国際書画展」に参加するため、1月14日と15日二日間京都を訪れ、作品の観賞と交流および歴史と禅文化の研修を実施した。

 この研修は14日午前11時に京都市美術館別館にて、「京都国際書画展」の開会式からスタートした。 

会場は、日本、中国および韓国、イタリア、インドなどの国から120名のアーティストの150点あまりの多様多彩な作品が飾られて、中国からの書画家、地元京都、近畿、関西地区ならびに広島から集まった大勢の出品者と愛好者で賑わい、まだ極寒の中の京都に暖かい初春の息吹が吹き込まれた。

開会式で、日本南風水墨画協会主宰の方子平先生が開会宣言をしたあと,中国書画家代表団の団長をつとめる、中国美術学院古代文字研究センター所長韓天雍教授は流暢な日本語で日中文化交流に強い意欲と熱情に溢れた祝辞を披露した。

続いて、廣島国際書芸交流会代表馬仁武先生は広島から参加した23名の出品者を代表して挨拶した。馬先生は冒頭で、本展を企画、主催する方子平先生をばしめとする開催に尽力した関係者の皆様に深く敬意と感謝の意を表した。また「本展は単なる書画芸術の展示のみならず、日中両国の友誼と文化の相互参考を深化することに大きな意義を持つ」、「このたびの展示作品を拝観して、日中両国の書画芸術には相通点は多く見えるが、それぞれ独特な風格(スタイル)と異なる表現力も存在することを強く感じた」、「今後は今回の様なジャンル幅広く、高レベルの国際的な作品交流展を続けてほしい」と期待を寄せた。

14日の午後から開始した歴史文化研修は平安文化と紫式部につながった滋賀県大津、琵琶湖のほとりに位置する世界遺産―近江八景の「三井の晩鐘」で知られる三井寺を参拝した。「紫式部特別展」、聖武、天武、持統の三天皇がつかわれた産湯で有名な「霊泉・閼伽(あかが)井屋(いや)」など、興味津々で見学した。

その前、昼の祝賀会をした琵琶湖ホテルの展望台で、日本最大の湖―「ほどほど田舎、ほどほど都市」といわれる琵琶湖の雄大さと変化に富んだ山水一体型の景色を飽覧した。また、平安時代から江戸末期まで、関西と関東の分水嶺を象徴した「逢坂(おうさか)の関」の遺跡もこの目で確かめた。

二日目の15日は現代の日本文化に深遠な影響を与えた二大禅寺―東福寺、大徳寺への研修を中心にを行った。

朝9時、京都五山の一つ、創建780年の歴史、日本最古最大の伽藍をもつ大本山東福寺を訪れた。東福寺は日本最初に国師と称された聖一国師―(えん)()(べん)(ねん)が三十三歳で宋に渡り、天目山の径山寺で禅の仏法を修得して帰朝、筑紫に崇福寺、承天寺を建て、法を説き、名声が国内に及び、時の摂政関白・九条道家に都に迎えられ東福寺を開山、やがて歴代天皇や幕府の帰依を受け、国中の各大寺院の再建復興にも尽力し、聖一国師は中国より多数の典籍を持ち帰り、多くの弟子を育成した。また水力による蕎麦などを製粉する機械の図面を伝えて、製麵技術を普及するとともに、杭州径山(こうしゅうきんざん)の茶の種を郷里に伝え静岡茶の茶祖と尊ばれている。

東福寺寺務職員の案内で一般非公開の東福寺「伽藍の顔」を象徴する国宝に指定され、禅宗現存最古、最大の三門を見学した。

この三門は昭和二十七年に国宝建造物に指定された。棟高二十二メートル余、五間三戸の二階二重門で、大仏様式を用いた入母屋造りで、禅宗三門としては最古、最大、最優のもの言われている。楼上の扁額「玅雲閣」は室町幕府四代将軍足利義持公の筆跡、天井画や欄間、円柱に描かれた壁画は天上極楽を表わす内容で、天女天人や動物の顔と表情は生き生きとして色鮮やかに残っている。正面の宝冠釈迦如来像および十六羅漢像は室町時代初期の作と伝えられ、いずれも貴重な仏教美術である。

一般非公開の東福寺光明宝殿に入ると、みんなうわーと思わず声を上げた。高さ3メートルを超す阿吽二天王像や優美な阿弥陀如来坐像、国内最大とされる豪華な朱漆塗りの卓などの寺宝を収められている。また見るものを圧倒する、寺の巨大な伽藍に見合う規格外の大きさを誇る諸仏を身近でその迫力を体感し、みんなは「仏像といえば奈良、というイメージだったんですが、こんなに立派な仏様が東福寺にあるのを見てびっくりした」と感激した。

 案内職員は、「創建当初の東福寺は禅宗に加えて、天台や真言密教も教えるなど、まさに仏教大学のようだった。こうした寺の歴史にも理解をふかめてもらえれば」とこう述べった。

 本堂を見学して、次は東福寺方丈。広大な方丈には東西南北に四庭が配され、「八相成道」に因んで「八相の庭」と称される。禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは東福寺の方丈だけである。その質実剛健な風格と現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の白眉として今は広く世界に紹介されている。本坊庫裡を見学するときは用意した抹茶をいただいた。

 東福寺を後にして、今度は北区にある中世南北両朝の勅願寺、一休と茶聖利休で名高い臨済宗大徳寺へ研修を深める。

 大徳寺は日本臨済宗の本流、境内に二十四を数える寺院(塔頭)は、それぞれに歴史と偉容を誇る、京都を代表する一大禅刹であり、大きな寺町を形成している。

 ところが、大徳寺は京都の他の寺との大きな違いといえば、実は茶道との関係にある。大徳寺九十世大林宗套(おおばやしそうとう)に参じた茶人に武野紹鷗(たけのじょうおう)がある、宗套の法孫には春屋宗園、古渓宗陳などが輩出し、紹鷗の道統を引継ぐ千利休は春屋宗園、古渓宗陳に深く帰依した。(利休居士号は正親町天皇により賜った)。また古渓和尚は豊臣秀吉の信望厚く、ここに大徳寺と秀吉、利休居士との強い結びつきが生じ、当時の戦国大名は競って大徳寺の参徒となり塔頭を建立し、茶道に精進した。

 千利休は村田珠光、武野紹鷗が創立したわび茶を受け継ぎ、かれらは茶道に禅宗の考えを加味して、「茶禅一味」の精神が醸成された。それが現代日本文化の源泉となっている。

 塔頭大慈院泉仙(いずせん)(てっ)(ばつ)精進料理をいただいた後、解説がむずかしい「金毛閣」(山門をくぐり境内に入る者は、金毛の獅子となって下化衆生せんことを)の扁額が掲げている山門と本堂を一般拝観した。

つづいて、特筆すべきなのは、大徳寺境内にある今現在一番栄えている、1588年に創建した塔頭―安芸の国(広島)にも深いかかわりのある黄梅院である。

本堂、庫裡、唐門、鐘楼、書院と建物は開創往時のままを今に伝え、雲谷等顔、等益と雪舟の流れを汲む障壁画も残存、それぞれ国の重要文化財に指定されている。墓所には萬松院殿(織田信長)、昌林院殿(蒲生氏郷)、洞春寺殿(毛利元就)、黄梅院殿(小早川隆景)、天樹院殿(毛利輝元)、以降毛利家代々、毛利家家臣団、益田、福原、桂家等々祀られている。

というのは、1589年に小早川隆景は豊臣秀吉から普請奉行に任じされ、この年に黄梅院の伽藍の修繕改築を行い、「庵」を「院」に改めた。時に当院二世、玉仲和尚が大徳寺一一二世住持(正親町天皇から仏機大雄禅師号勅賜)であった。

午後2時、黄梅院の茶室幻庵、抹茶と京銘菓満月堂の阿闍梨餅をいただきなから、八十八歳の黄梅院住持を60年つとめる小林太玄和尚より、達磨が開宗した禅宗の源流や黄梅院の名前の由来および和尚さん自分が歩んだ波瀾万丈の人生、また黄梅院と広島マツダとのかかわりなど、禅機と哲学に富んだお話しをしていただき、みんなじっくりお聴きした。

法話終了後、小林和尚は自ら寺院の建物、本堂、庫裡(小早川隆景の寄進)、茶屋、千利休が作庭した直中庭などを案内、説明してくださった。参加者全員は和尚さんが真筆書いた(禅語)のご朱印紙をいただいた。最後は研修ツアーの一人一人と親切に握手し、入口の外まで見送りした。

この度の「歴史と文化の探幽」を位置付けた作品展と研修の全過程、実施内容のすべて、みんなに深い印象を刻み、これからの書の学習だけでなく、人生の生き甲斐にも意義があると思う。

この日は旧暦の12月15、16日にあたり、コールドムーン、帰途の車窓から満月の光が目にとどき、うっかりと漢詩の句が浮かび上がる

「古今明月皆如此、惟願世界共和平」

(古今の明月 皆此れの如し、惟願う世界共に平和を)

2025年1月17日於平和都市―広島城北