
うららかな三月、万物が一新する。方丈である万行大和尚が僧侶たちを率いて普請(ふしん)に出向き、共に落花生を植えている。暖かな太陽は金色に輝き、春風が顔をなで、まるで天地の間に禅の心が流れているかのようだ。

落花生と他の作物を交互に輪作し、自然に順応することで、土地資源をうまく活用しつつ四季のリズムにも合致させている。このような耕作方法は、禅宗の「縁に随って為す」という智慧を内包しているだけでなく、現代の生態農業の理念にも通じる。僧侶たちは畑で土を耕し、堆肥を作り、気を散らすことなく作業に取り組む。禅の瞑想を農に取り入れ、農を禅に活かし、禅を農の支えとし、農と禅の一体化を実現する。一つ一つの鍬の動き、一つ一つのシャベルの動きが、すべて修行である。一つ一つの株、一つ一つの苗が、すべて法縁である。これこそが、東華禅寺の僧侶たちの「水を運び薪を運ぶこと、すべてが道なり」という言葉を真に表している。



四季の移ろいの中で、体の強健さを磨くことから、心の中に悲しみを育むことまで、それはまるで最も素朴でありながら無限に奥深い法門のようである。この心は、いつか世を捨てて山にこもるという意味ではなく、群衆の中に溶け込みながら、一瞬一瞬を大切にするということだ。

東華禅寺は、農と禅を両立させることを修行の特徴としている。寺院の周囲には広大な土地があり、山林は青々としている。現在、アブラチャの畑が1000ムー(訳注:1ムー/666㎡)、茶畑が500ムー、耕地が200ムー余り、野菜畑が30ムー、山林が2000ムーある。この土地は自然の恵みを育むだけでなく、禅門の生活の智慧と修行の道を担っている。この農と禅の畑で、僧侶たちは茶の木やアブラチャ、五穀雑穀、そして四季の野菜や果物などの緑の有機農作物を育てている。これらの農作物は、一年を通じて寺院の弟子たちの三食の精進料理をまかない、僧団の自給自足の基礎となっている。



農禅合一:農をもって禅に入り、禅をもって農を耕す

禅宗は唐代の百丈懐海禅師が「農禅並重」の伝統を確立して以来、農作業と禅の修行を一体のものとしてきた。「一日作さざれば、一日食らわず」という言葉が、禅宗の自給自足の基礎を築いた。

いわゆる「農をもって禅に入る」とは、僧侶たちが農作業を通じて、心身を自然に溶け込ませ、土を耕し種を植え、収穫する過程で執着を捨て、今この瞬間に集中し、禅の理を体得することである。農禅の修行は、俗世から離れることではなく、自然に溶け込み、天地に順応し、山や川、草木と共に呼吸し、四季のリズムと共に成長することである。

一方、「禅をもって農を耕す」とは、禅の精神を農業に注ぎ込むことである。僧侶たちは労働する時、脇目も振らず、速成を求めず、名声や利益を追い求めない。農禅の実践は、自然への畏敬であると同時に、生命の恵みを大切にすることでもある。
人天合一:水を運び薪を割る、それもまた妙なる道
農業と禅の融合は、禅宗の中国化が生み出した独特な産物である。禅宗は、生命の本質は自然に順応することにあると考え、農作業こそが天の理に順応し、時に応じることの体現であるとしている。



農禅の核心は「人天合一」にある。僧侶たちは畑で働く時、春に種を蒔き秋に収穫するという自然のリズムを感じ、「瓜を植えれば瓜を得、豆を植えれば豆を得る」という因果の法則を体得する。農禅の世界では、土地は食糧の源であるだけでなく、修行の道場であり、種子は生命の象徴であるだけでなく、悟りの契機でもある。「水を運び薪を割る、それもまた妙なる道」という言葉が、禅宗の生活の智慧を最もよく表している。禅宗は、悟りや禅の機微は決して生活から離れてはならないと考え、生活から離れてしまえば、仏法は意味を失うとする。自然に順応することは生命の本質に順応することであり、農作業を通じて、僧侶たちは心を磨き、生命の本質を体得している。日出とともに働き、日没とともに休む生活の中で、労働を修行に変え、自然を心の状態に取り入れよう。


煙が大地を温めて農作業が始まり、新雨で春の耕作が始まる。
野原は広大で緑に覆われ、野草や花が次々と育つ。
東華禅寺における農耕と禅の実践は、千年続く禅宗の伝統を継承するものである。僧侶たちが蒔くのは食糧だけでなく、祝福と智慧でもある。禅宗の「活在当下(今を生きる)」は空虚な話ではなく、人が一つ一つのことに全身全霊で没頭し、我を忘れ、感情を忘れ、利己的な心をなくすことによってはじめて、今という瞬間に真に溶け込むことができると教えている。




農耕と禅の修行を通して、私たちは労働の現実と信仰の理想とを融合させ、様々な手段を最終的な目的に結びつけ、労働の過程を通して豊かな実りを得る。土地を丹念に耕すことで心身を落ち着かせると、法がそうであるように万物は自然に生じるのだ。
【出典】東華禅寺
翻訳/古橋奈津子